なお森崎さんの哲学には、近世になって使われた哲学と全く違った意識の領域を言語で表現する為に全く新しい言葉を作る必要がありました。以下の言葉を明確に対象的に取り出せるように、対象意識を分別できるようになれば内包表現論と言う未踏の領域を哲学を理解できたことになるのと同じです。
内包、外延、同一性の論理、往相の性、還相の性、根源の一人称、根源の二人称、存在の複相性、内包親族、総表現者、メビウスとなった性、領域になった自己
例えばフロイトがいろんな概念を提出しましたが、エス、自我、超自我、無意識 これらの概念は、みんな森崎さんの概念で言えば、人間の意識の全体性ではなく、その中の外延意識による対象化、すなわち同一性を確定する意識が対象を明確に分別し空間に配置された全ての物になります。かろうじてエスだけが、その対象空間の向こうにある内包空間を形成する根源の一人称の灼熱のエネルギーを遠くから指し示してると言えます。
森崎さんは2015年2月ごろから、「歩く浄土」という論考を自身のブログに発表するようになり、亡くなる前年の2022年11月まで、あわせて282回分が公開されていたのですが。2024年の9月頃に削除されてしまい、全部コピペは取れなくて、かろうじて最後から数回分をコピペできたので、あとは大学院生の時から森崎さんと知り合いで、往復書簡を互い交わしていた、「世界の中心で愛を語る」の小説家片山恭一さんとの往復書簡が16回(第十六信・片山恭一様(2018年2月18日))まで片山さんのブログに公開されています。また熱心なブログの読者で友人である倉田昌紀「(詩人)1952年生まれ、和歌山県白浜町富田在住。」が追悼文として森崎さんのブログの多く引用と感想を述べています。興味ある方は参考にしてください。
片山さんhttps://katayamakyoichi.com/死が消える場所~森崎茂さんの内包論#:~:text=2023年1月に,あったことになる%E3%80%82
倉田さんhttps://kinan-art.jp/app/wp-content/uploads/2023/02/3fe91c519dcdd844569cc5cf864751b9.pdf
以下 往復書簡の抜粋です。森崎さん自身の説明が分かりに安いです。
片山〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜賢治も言っているように、これまで「表現」とされてきたもの、文学とか音楽とか絵画とか、いわゆる芸術みたいなものだけを「表現」ととらえるのでは、表現の概念が狭すぎるということになります。
森崎 むちゃくちゃ狭いと思います。思い切り表現の概念を広げる必要がある。娘がスマホで送ってくれた写真のなかで、娘の子が生まれたばかりの二つと違わない妹の顔をじぶんの腕で輪をつくって囲み、ときどき頬を撫でているものがあります。思わずそうせずにはおれない、利己的なあり方からもっとも遠くて深い場所からの応答だということが直感的にわかりました。娘の子の計らいを超えたおのずからなる応答がある。これが表現だと思うんです。人間がなしている表現とはそういうものです。
片山 ぼくたちの生そのものが、人間の根源は二人称だということを表現しているということですね。
森崎 そうです。一緒に食べよう、分けよう。これが人間の根源だと思うんです。人は根源において二人称である。それを身体と心が一つきりで引き受けるしかない。そのことをぼくは「分有」と言っています。分有ということにおいて、わたしはあなたになれる。だから絶体絶命のときも「きみが生きろ」ということが倫理ではなく、ごく自然に反射として出てくる。山手線の列車事故のように反射として身体が動き、結果的に巻き添えを食ってしまう。この善きものがあるから人間はつづいてきた。それが誰のなかにも埋め込まれている。片山さんの小説のなかでは、アキの目に映っている朔太郎が彼にとっての本当の自分であり、朔太郎の目に映っているアキが彼女にとっての自分である。そのようにして二人は生きている。お互いに、あなたがわたしになっている。すると自己は領域にならざるをえない。同一性の論理では表現できない。同一性をはみ出している。そのはみ出していることを、それぞれのやり方で表現していけばいいと思います。
さらに言えば、人はある特定の時代を、ある生育史を余儀なく生きているのではない。自分が自分を生きるということは、累乗化された人類史を一身に生きることと等価です。なぜ等価かというと、根源の二人称を分有することにおいて、ぼくたち一人ひとりの生が自由で平等であるからです。この生の基底は太古も、いまも、これからも変わらないと思います。これ以上にリアルな平等はない。しかも自由である。根源の二人称ということがあるから、もともと自由であり平等なのだ。この生のあり方から、いったい何を奪うのか。来るべき総アスリートの時代を、ぼくたちが総表現者で迎え撃とうと言っているのはそういうことです。(了)
注 片山さんの小説、世界の中心で愛を語る。作者 片山恭一、映画化された。
注 山手線の電車事故 2001年1月26日 山手線新大久保駅で、泥酔した男性がプラットホームから線路に転落した。その男性を救助しようとして、線路に飛び降りた日本人カメラマンと韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さんが、折から進入してきた列車 にはねられ、3人とも即死した。なお日本人カメラマンは後に「横道世之介」と言う吉田修一による小説で、映画化もされました。主演 高良健吾、吉高由里子
注、以下の言葉を具体的に捉えるのがこのブログの目的です<根源の一人称、根源の二人称、同一性(私は私であると私を他から区別し対象化すること、その対象化作用によってできた全ての対象物からなる現実の世界のこと)>
「いま重大なことに気がついた」
「ぼくがこの世に生まれてからアキがいなかったことは」
「これまで一秒だってないんだ」(サク)
「ぼくが生まれてきた世界は、アキのいる世界だった」(サク)
わたしが朔ちゃんと一緒にいた時間は、短かったけれどすごく幸せだった」
「これ以上の幸せは考えられないくらい」(アキ)
「お別れね」
「でも、悲しまないでね」(アキ)
「わたしの身体がここにないことを除けば」
「悲しむことなんて何もないんだから」(アキ)
「天国はやっぱりあるような気がするの」
「なんだか、ここがもう天国だという気がしてきた」(アキ)
「ぼくもすぐに行くから」(サク)
「待ってる」(アキ)
「でも、あんまり早く来なくていいよ」
「ここからいなくなっても、いつも一緒にいるから」(サク)
「またわたしを見つけてね」(アキ)
「すぐに見つけるさ」(サク)
森崎 ここで、ものすごく大事なことが言われている。「また見つけてね」「すぐに見つけるさ」のむつみ語の間にすきまがないということ。なぜすきまがないのかというと、「このとき二人は、おそらく亜紀でも朔太郎でもないものに触れている」からということになる。亜紀からは朔太郎に向けて、朔太郎からは亜紀にむけて、生が全面的に明け渡されているからだ。全面的に明け渡された「亜紀でも朔太郎でもないもの」とはなにか。根源の一人称であり、事後的に分節された還相の性である。還相の性と〔共〕にあるとき、亜紀は朔太郎であって、どうじに亜紀でも朔太郎でもない。
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