このブログは森崎茂さんの内包表現論について理解を深めるため自分の研究ノートようなものです。おそらくまだ日本にごく僅かな理解者しかいないので、もっとみんなに知って欲しいと思って書いています。どんな哲学か大まかに紹介すれば、普段私達は、社会の中で自分や他人をあれこれ社会的に自己の今持ってる自己意識(価値観)で、評価したりされたりしながら付き合っています。その中で多かれ少なかれストレスを感じながら日々を生きています。特に最近は引きこもりや若い人の自殺も多く日本も世界も行き詰まった感じです。しかしこんな日常を明るく元気にいっぱいに生きる心がの元気の元が、私達が日常の使ってる自己意識が作る世界(外延世界)とは別の次元に、その日常意識の底のミクロの細い通路抜けた裏側に、いつも匿名だけど固有の誰かと共にある別の私があって、例えば日常の世界で言えば二人で「美味しいな、綺麗だな」と応答しているような世界を、(森崎さんは内包と呼ぶ)還相の性によって立ち上がった二人で開く世界だと言います。昔なら阿弥陀という仏が導いた浄土と言われた世界が現れたとも言ってます。そこが人間の本源である森崎さんの言う(根源の二人称)が開く世界で、その心が照らす光で世界を歩けば、世界はこの上もなく魅惑的で素晴らしいものになるという。森崎さんの実体験をなんとか言葉でみんなに届けようとしたのが森崎さんの哲学です。


なお森崎さんの哲学には、近世になって使われた哲学と全く違った意識の領域を言語で表現する為に全く新しい言葉を作る必要がありました。以下の言葉を明確に対象的に取り出せるように、対象意識を分別できるようになれば内包表現論と言う未踏の領域を哲学を理解できたことになるのと同じです。

 内包、外延、同一性の論理、往相の性、還相の性、根源の一人称、根源の二人称、存在の複相性、内包親族、総表現者、メビウスとなった性、領域になった自己

例えばフロイトがいろんな概念を提出しましたが、エス、自我、超自我、無意識 これらの概念は、みんな森崎さんの概念で言えば、人間の意識の全体性ではなく、その中の外延意識による対象化、すなわち同一性を確定する意識が対象を明確に分別し空間に配置された全ての物になります。かろうじてエスだけが、その対象空間の向こうにある内包空間を形成する根源の一人称の灼熱のエネルギーを遠くから指し示してると言えます。



 森崎さんは2015年2月ごろから、「歩く浄土」という論考を自身のブログに発表するようになり、亡くなる前年の2022年11月まで、あわせて282回分が公開されていたのですが。2024年の9月頃に削除されてしまい、全部コピペは取れなくて、かろうじて最後から数回分をコピペできたので、あとは大学院生の時から森崎さんと知り合いで、往復書簡を互い交わしていた、「世界の中心で愛を語る」の小説家片山恭一さんとの往復書簡が16回(第十六信・片山恭一様(2018年2月18日))まで片山さんのブログに公開されています。また熱心なブログの読者で友人である倉田昌紀「(詩人)1952年生まれ、和歌山県白浜町富田在住。」が追悼文として森崎さんのブログの多く引用と感想を述べています。興味ある方は参考にしてください。

片山さんhttps://katayamakyoichi.com/死が消える場所~森崎茂さんの内包論#:~:text=2023年1月に,あったことになる%E3%80%82

倉田さんhttps://kinan-art.jp/app/wp-content/uploads/2023/02/3fe91c519dcdd844569cc5cf864751b9.pdf


以下 往復書簡の抜粋です。森崎さん自身の説明が分かりに安いです。


片山〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜賢治も言っているように、これまで「表現」とされてきたもの、文学とか音楽とか絵画とか、いわゆる芸術みたいなものだけを「表現」ととらえるのでは、表現の概念が狭すぎるということになります。

森崎 むちゃくちゃ狭いと思います。思い切り表現の概念を広げる必要がある。娘がスマホで送ってくれた写真のなかで、娘の子が生まれたばかりの二つと違わない妹の顔をじぶんの腕で輪をつくって囲み、ときどき頬を撫でているものがあります。思わずそうせずにはおれない、利己的なあり方からもっとも遠くて深い場所からの応答だということが直感的にわかりました。娘の子の計らいを超えたおのずからなる応答がある。これが表現だと思うんです。人間がなしている表現とはそういうものです。
片山 ぼくたちの生そのものが、人間の根源は二人称だということを表現しているということですね。
森崎 そうです。一緒に食べよう、分けよう。これが人間の根源だと思うんです。人は根源において二人称である。それを身体と心が一つきりで引き受けるしかない。そのことをぼくは「分有」と言っています。分有ということにおいて、わたしはあなたになれる。だから絶体絶命のときも「きみが生きろ」ということが倫理ではなく、ごく自然に反射として出てくる。山手線の列車事故のように反射として身体が動き、結果的に巻き添えを食ってしまう。この善きものがあるから人間はつづいてきた。それが誰のなかにも埋め込まれている。片山さんの小説のなかでは、アキの目に映っている朔太郎が彼にとっての本当の自分であり、朔太郎の目に映っているアキが彼女にとっての自分である。そのようにして二人は生きている。お互いに、あなたがわたしになっている。すると自己は領域にならざるをえない。同一性の論理では表現できない。同一性をはみ出している。そのはみ出していることを、それぞれのやり方で表現していけばいいと思います。
 さらに言えば、人はある特定の時代を、ある生育史を余儀なく生きているのではない。自分が自分を生きるということは、累乗化された人類史を一身に生きることと等価です。なぜ等価かというと、根源の二人称を分有することにおいて、ぼくたち一人ひとりの生が自由で平等であるからです。この生の基底は太古も、いまも、これからも変わらないと思います。これ以上にリアルな平等はない。しかも自由である。根源の二人称ということがあるから、もともと自由であり平等なのだ。この生のあり方から、いったい何を奪うのか。来るべき総アスリートの時代を、ぼくたちが総表現者で迎え撃とうと言っているのはそういうことです。(了)

注 片山さんの小説、世界の中心で愛を語る。作者 片山恭一、映画化された。

注 山手線の電車事故 2001126 山手線新大久保駅で、泥酔した男性がプラットホームから線路に転落した。その男性を救助しようとして、線路に飛び降りた日本人カメラマン韓国人留学生の李秀賢(イ・スヒョン)さんが、折から進入してきた列車 にはねられ、3人とも即死した。なお日本人カメラマンは後に「横道世之介」と言う吉田修一による小説で、映画化もされました。主演 高良健吾、吉高由里子  

注、以下の言葉を具体的に捉えるのがこのブログの目的です<根源の一人称、根源の二人称、同一性(私は私であると私を他から区別し対象化すること、その対象化作用によってできた全ての対象物からなる現実の世界のこと)>

 
 
上記 対談にある以下の①文の、人が独りで自分はこんな人間だと自己確定してる自我である自己は単なるその時の一時的幻想で、今相手の目に写っている自己が自分でも自覚できない本来の自己ではないか?。こうしたことは例えば、初対面の相手の呼びかけの言葉や笑顔に思わず反応して懐かしい自分が立ち上がる経験は誰にでもあるのではないかと言う気付きから。森崎さんの哲学に近づけると僕は思ってます。
 僕の経験で言えば。僕の名前を、古い徳島独特のアクセンとで呼ばれた時。まだ幼稚園児の頃もう名前は覚えてないが仲の良い女の子から懐かしい「まっこちゃん」という呼び名で呼ばれた時に立ち上がる。何か優しいものに包まれた自分が現れます。場合によっては初めて会ったのにずっと昔から知ってような異性や友人に会ったような時もあります。
 その時の私とアナタの関係は自他の垣根を飛び越えようとしています。これを極限まで一体感のある関係にしたのが、世界の中心で愛を語るの小説の主人公アキと朔太郎です。

①「アキの目に映っている朔太郎が彼にとっての本当の自分であり、朔太郎の目に映っているアキが彼女にとっての自分である。そのようにして二人は生きている。お互いに、あなたがわたしになっている。すると自己は領域にならざるをえない。同一性の論理では表現できない。同一性をはみ出している。そのはみ出していることを、それぞれのやり方で表現していけばいいと思います。」

アキは白血病で朔太郎と別れる時に交わした会話。以下参考

「いま重大なことに気がついた」
「ぼくがこの世に生まれてからアキがいなかったことは」
「これまで一秒だってないんだ」(サク)

「ぼくが生まれてきた世界は、アキのいる世界だった」(サク)

わたしが朔ちゃんと一緒にいた時間は、短かったけれどすごく幸せだった」
「これ以上の幸せは考えられないくらい」(アキ)


「お別れね」
「でも、悲しまないでね」(アキ)

「わたしの身体がここにないことを除けば」
「悲しむことなんて何もないんだから」(アキ)

「天国はやっぱりあるような気がするの」
「なんだか、ここがもう天国だという気がしてきた」(アキ)

「ぼくもすぐに行くから」(サク)
「待ってる」(アキ)

「でも、あんまり早く来なくていいよ」
「ここからいなくなっても、いつも一緒にいるから」(サク)

「またわたしを見つけてね」(アキ)
「すぐに見つけるさ」(サク)


森崎 ここで、ものすごく大事なことが言われている。「また見つけてね」「すぐに見つけるさ」のむつみ語の間にすきまがないということ。なぜすきまがないのかというと、「このとき二人は、おそらく亜紀でも朔太郎でもないものに触れている」からということになる。亜紀からは朔太郎に向けて、朔太郎からは亜紀にむけて、生が全面的に明け渡されているからだ。全面的に明け渡された「亜紀でも朔太郎でもないもの」とはなにか。根源の一人称であり、事後的に分節された還相の性である。還相の性と〔共〕にあるとき、亜紀は朔太郎であって、どうじに亜紀でも朔太郎でもない。 

 
正しく上記の言葉を理解できてるかいまいち自信ないのですが、私なりに考えると、この完全に開け渡されている状態が日常の恋愛では稀であるのは普通は2人の間に隙間があるということで、隙間ができるのは自己を社会的な価値観で価値づけようとする自我意識のベクトル上で、往相の性に支配されて彼女に向かって自分を表現してるから、その声は彼女に届かないことになってしまうからです。そうではなくまず還相の性によって導かれ彼女の中に自分を見つけて共感し、その彼女でもある自分に自己を表現することで、互いに根源の2人称を共有し、そこから根源1人称になり二人は一体化して太極図(メビウスの輪)のような玉になるのではと解釈しています。




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